書籍・雑誌

2009年12月13日 (日)

「幻影の書」(ポール・オースター)

 ポール・オースターの近作「幻影の書」(2002年)読む。

 オースターと言えば、学生時代に「幽霊たち」(1986年)でショックを受けて以来、ずっと追い続けている作家だ。初期のニューヨーク三部作(「幽霊たち」「シティ・オブ・グラス」「鍵のかかった部屋」)、鮮烈な青春小説「ムーン・パレス」、不可思議なギャンブル小説「偶然の音楽」、等々どれも大好きだ。当ブログの冒頭に掲げた呪文みたいな文章も、実はオースターの「孤独の発明」からの引用だったりする。
 ところが90年代後半になって、「スモーク」「ルル・オン・ザ・ブリッジ」「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」等がどうも好きになれず、ここしばらくはオースターから遠ざかっていた。「幻影の書」を読む気になったのは、どうやら映画ネタだと知ったからである。

 妻子を飛行機事故で亡くした大学教師デイヴィッドは、偶然TVで目にしたオールド・ハリウッドの喜劇俳優ヘクター・マンにのめり込む。ヘクター・マンはハリウッドでの大成功を目前にして謎の失踪を遂げ、以来60年も消息不明だった。デイヴィッドは悲しみを紛らわす為に、世界中のシネマテークを駆け廻り、残されたヘクター・マンの作品を見まくって研究書執筆に没頭する。やがて出版された研究書に対し、ヘクター夫人を名乗る手紙が届く。何とヘクターはまだ生きており、未公開の作品を上映したいと言うのだ・・・。

 主人公の人生の危機を救うのが1本の喜劇映画、とくればウディ・アレンの「ハンナとその姉妹」の一場面を思い出す。自殺を思い立ったウディ・アレンはふと立ち寄った映画館で見たマルクス兄弟を見て、自殺を思い止まるのだった。絶望の淵にあった「幻影の書」の主人公デイヴィッドも、偶然目にしたサイレントの喜劇映画で生きる気力を取り戻す。映画好きならば、まずはここにグッと引き込まれるではないか。

 もちろん、「幻影の書」はそれでおしまいとなるような単純な小説ではない。映画によって救われる人間もいれば、映画によって破滅していく人間もいる。世間を逃れたヘクター・マンがニューメキシコの砂漠に作った彼だけの撮影所の興亡は興味深い。

 劇中に登場する喜劇俳優ヘクター・マンは架空の人物だが、その成功と挫折は正に「ハリウッド・バビロン」の世界。「幻影の書」は、「冷たい心の谷」(クライヴ・バーカー)、「ブラックダリア」(ジェームズ・エルロイ)、「フリッカー、あるいは映画の魔」(セオドア・ローザック)同様に、ケネス・アンガーの「ハリウッド・バビロン」Ⅰ・Ⅱを副読本として読みたい小説だ。

 「幻影の書」は映画マニアを刺激する細部に満ちているばかりか、単純に面白い「物語」だったのが嬉しかった。終盤に至っていつものオースターの例に漏れず暗い展開になるけれど、ラストはいつになく前向きな印象。それがまた嬉しかった。


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2009年12月11日 (金)

「閉鎖病棟」(パトリック・マグラア)

 パトリック・マグラア「閉鎖病棟」(1996年)読み終える。

 精神病院の副院長の妻ステラと、入院患者のエドガーが不倫関係に陥る。精神科医である夫マックスと対照的に情熱的なエドガーとの情事にのめり込むステラ。しかしエドガーは謂れのない嫉妬の果てに妻を殺害した過去を持つ危険な患者だった・・・。

 医者の妻と患者の道ならぬ情事を描く一種のメロドラマで、とても辛い話だった。これまでの作品に見られたホラー的要素、ミステリー的要素はほとんどなく、題名通り息苦しいばかりに張り詰めた心理描写が延々と続く。実はマグラアの父親は著名な精神科医で、マグラア自身本作の舞台になったような病院の近所で育ったのだという。なるほど隅々までリアルな訳だ。
 アグラアらしいのは、ネタがネタだけに精神分析的要素がこれまで以上に色濃く出ている事と、またしても特徴的な「語り手」の存在だ。この物語の語り手は、精神科医のピーター。マックスの同僚であり、ステラとは気の置けない友人であり、エドガーの担当医でもある。ピーターはステラの口から聞き出した悲劇に至る危険な情事を淡々と物語るが、やがてピーター自身が物語に介入する時がやってくる。有能な精神科医であり、第三者として冷静に物語を記述する語り手が単なる語り手を逸脱する時、更なる悲劇が訪れる。そして全ては「閉鎖病棟」の中に閉じ込められる。

 個人的に、ヒロインであるステラには一切感情移入出来なくて困った。むしろ、情熱的な妻を持て余し、精神科医の目と出世欲と金持の母親の間で身動きが取れなくなり、やがて取り残されるマックスに目が行った。この寝取られ夫が気の毒でならなかったなあ。マックスが終盤にもらすこんな言葉が印象的だった。

「人間、毎日が恥との戦いだ。責任を取ることが何よりも難しい」


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2009年12月10日 (木)

「ヘルバウンド・ハート」(クライヴ・バーカー)

 12/8(火) 仙台にて会議。その後、忘年会その1。いろいろあって怒り心頭。終電逃してタクシー帰り。

 12/9(水) 朝8:15発の飛行機で札幌出張。会議。その後、忘年会その2。3次会まで烏龍茶で過ごす。我ながらよく堪えたと思う。

 で、今日。札幌での仕事を片付けて、仙台に戻ってきた。帰りの飛行機で左耳がおかしくなって参った。「耳がキーンとなる」とかそういうレベルじゃなくて、もう引き攣れるというか激痛が走る感じで辛かった。

 出張の行き帰りでクライヴ・バーカー「ヘルバウンド・ハート」(1986年)読む。かなり前のメディアパトロールで購入した1冊。言わずと知れた「ヘル・レイザー」の原作本。

 何に驚いたかって、物凄おおおおおく読みやすいんだなこれが。子供向けの訳本のごとき平易で解りやすい文章で、お話もあり得ないくらいシンプル。いや、別にけなしてるわけじゃなくて、そのあまりの解りやすさにちょっと驚いたもんで。

 初期のクライヴ・バーカーは他に「ミッドナイト・ミートトレイン」くらいしか読んでいないので語ることは出来ないけれど、この驚くべきシンプルさから、重層的な魅力に富んだ近年の傑作長編「冷たい心の谷」(2001年)まで行きついたってのは凄いなあと思う。よく見ると、「冴えない」ヒロインの造形や、異空間の描写など「ヘルバウンド・ハート」と「冷たい心の谷」にはちゃんと共通点があるようだ。

 久しぶりに「ヘル・レイザー」見直してみたくなった。魔道士のヴィジュアルと、アンディ・ロビンソンが破裂する場面くらいしか印象に無いので、どんな映像だったか確認したいなあ。


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2009年11月30日 (月)

「死のドライブ」(ピーター・ヘイニング編)

 車をテーマにした短編を集めたアンソロジー「死のドライブ」読み終える。「死のドライブ」ってくらいだから、恋人との楽しいドライブなんて楽しい話はほとんどなし。自動車事故、スピード狂の対決、呪われた車、といったコワい話がてんこ盛り。作家はスティーヴン・キング、リチャード・マシスン、ロアルド・ダール、ハーラン・エリスンら錚々たる顔ぶれで、全く外れなしの面白さ。

 スティーヴン・キング「トラック」(「地獄のデビルトラック」原作)、リチャード・マシスン「決闘」(「激突!」原作)、イブ・メルキオー「デス・レース2000年」といった映画の原作が収録されているのも嬉しい。J・G・バラードの「クラッシュ」第一章も収録されている。

 殺伐としたお話が多い中で、ジョー・R・ランズデール「デトロイトにゆかりのない車」は意外やちょっといい話で気に入った。大雨の夜、巨大な黒い車で死神がやってくる。妻の魂を死神に奪われそうになった老人が闘いを挑むという話。(「ババ・ホ・テップ」と同じで、老人が死力を尽くして異形のものと闘う話だ!)

 これだけコワい乗りものなのに、何故みんな車が好きなのか?そんなことも考えさせる好アンソロジーだった。
 バラードファンとしては、このアンソロジーの中では「クラッシュ」があまりに異色に見えるのが興味深かった。自動車(事故)に対するアプローチが他の短編とあまりに違いすぎるのだ。


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2009年11月28日 (土)

「グロテスク」(パトリック・マグラア)

 パトリック・マグラアの長編第一作「グロテスク」(1989年)読む。イギリスの田舎町、古い屋敷に住む古生物学者ヒューゴーが語り手。ヒューゴーは脳の発作で植物人間となり、車椅子生活を送っている。ヒューゴーは語る。なぜ私が車椅子生活を送るようになったのか、全ては新しい執事フレッジの仕業なのだ・・・。

 車椅子に座った老人が、妻と執事の仲を疑い、娘の婚約者が死体で発見されると犯人は執事だと決めつけ、次第に妄想の入り混じった世界へ突入していく。長編1作目からしてマグラアの世界はすでに完成されている。古い屋敷の描写、金持と使用人の人間関係、などポーの後継者、ポストモダン・ゴシックの旗手として高い評価を得たのも納得の出来栄え。ミステリ的な要素も盛り込まれており面白かった。

 この小説の見どころは、やはり全編に渡ってヒューゴー老人の吐き散らす悪意と妄想だろう。個々の出来事を関連付けて、本人が関わっていない細部に至るまで勝手に物語を組み立てていく様子には、思わず「あんた見たんかい!」とツッコみたくなる。全能の神のように頭の中で全てにジャッジを下していくヒューゴーが、しかし「もしや自分は娘の想像の中の人物なのではないか」と自らの存在を疑う(ということは小説の語り手としての存在をも揺るがす)場面もあったりして面白い。


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2009年11月26日 (木)

「ザ・ロード」(コーマック・マッカーシー)

 コーマック・マッカーシーの目下のところ最新作「ザ・ロード」(2006年)が映画化されたようだ。

 「ザ・ロード」は一言で言うならば、「マッドマックス2」meets「子連れ狼」。秩序崩壊後の荒廃した地上で、親子がサバイバルする姿を描くという、もの凄くシンプルな小説であった。過酷な世界でのサバイバル、旅の描写はマッカーシーならではの迫力。なんだけど、正直言ってあまりに直球すぎたのか「国境三部作」や「血と暴力の国」ほど深みがないという印象で、文章にも詩情が感じられなかったような気がして残念であった。読み物としては十分面白かったけど。

 件の映画化では、父親役にヴィゴ・モーテンゼンがキャスティングされれいるという、。役者は申し分ないと思うが、内容がジャンル寄りなだけに、どっかで見たようなショボいものにならないかと心配だ。


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2009年11月25日 (水)

「平原の町」(コーマック・マッカーシー)

 昨日「越境」について書いたので、「平原の町」についても書き記しておきたいと思う。

 「平原の町」はコーマック・マッカーシーの国境三部作完結編。第一部「すべての美しい馬」の主人公ジョンと第二部「越境」の主人公ビリーが、同じ牧場で働く仲間として登場する。(前二作を読んだ後では、過酷な体験を通過した2人がちゃんと生きてるだけでも嬉しくなってしまうのだ)

 メキシコの若い娼婦と恋仲になったジョンが、娼館の主人とモメてのっぴきならない状況に追い込まれる。年上のビリーは、半ば呆れつつも友情を示してあれこれジョンを助ける。時代錯誤的とでも言いたくなるような直球のドラマが展開し、マッカーシーの熱い文体が冴えに冴えてぐいぐいと読ませる。クライマックスの決闘(1対1のナイフによる対決)は大迫力。「すべての美しい馬」の刑務所内での乱闘、「越境」での馬上の追撃戦、そしてこのナイフでの決闘はマッカーシーの活劇魂が沸きたつ見事な場面だ。

 物語は悲劇で幕を閉じる。そしてラストではふっと時代が現代に変わる。1人生き残って、今や浮浪者となったビリー老人が最後に漏らす言葉には泣いた。

 ううむ、もう一度読みたいなあ。求む、文庫化。
 

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2009年11月24日 (火)

「越境」(コーマック・マッカーシー)

 コーマック・マッカーシー「越境」(1994年)がめでたく文庫化された。これは大好きな小説。ここ数年で読んだ中では最も感銘を受けた特別な1冊と言ってもいい。

 「越境」はコーマック・マッカーシーの国境三部作の第二作に当たる。第一作「すべての美しい馬」がとても良かったので、続きも読みたいと思って調べたら既に絶版になっていた。amazonで調べたら一万円近い値が付いていた。どうしようかなあと迷ってたら、あっさり近所の図書館で発見! 早速借りて読んだらこれが素晴らしいのなんの。

 舞台はニューメキシコ州、時代は「すべての美しい馬」より10年ほど遡る1940年代前半。主人公の少年ビリーは、三度国境を超える。一度目は、両親が営む牧場を襲った狼を捕らえ、メキシコに帰すために。二度目は、弟と盗まれた馬を取り返すために。三度目は、弟の死を確かめるために。

 「すべての美しい馬」は青春小説であったが、「越境」はまるで神話のごとき寓話性を帯びている。全編凄い迫力で圧倒される。会話と地の文が一体化したマッカーシー独自の文体がとても良い。自分がマカロニウエスタン好きなので、荒涼とした風景を映像で思い浮かべやすいというのもあるかもしれない。狼と少年の駆け引きをじっくりと描く前半、それこそマカロニウエスタンのごとき荒々しいアクションが展開する後半、どちらも大好きだ。

 さておき文庫化はとても嬉しい。国境三部作完結編「平原の町」も早く文庫化されるといいなあ。これもまた泣けるんだよ。


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2009年11月18日 (水)

「ババ・ホ・テップ」(ジョー・R・ランズデール)

 ハヤカワ文庫より刊行中の「現代短編の名手たち」シリーズにジョー・R・ランズデールが登場。その名も「ババ・ホ・テップ」。早速読んでみた。

 ジョー・R・ランズデールは以前「ムーチョ・モージョ」「罪深き誘惑のマンボ」を読んだことがある。どうもキャラクターの扱いが粗雑だなあという悪い印象があり、その後は読んでいなかった。見直すきっかけになったのは、ドン・コスカレッリ監督が映画化した「ババ・ホ・テップ」(邦題「プレスリーvsミイラ男」)だった。ミステリ・マガジンに翻訳が掲載されていて、読んでみたら実に泣けるいい小説なのだった。

 今回の短編集にはエッセイ1編を含む12編が収録されている。全体に性急で暴力的な作品が多く、以前抱いた悪い印象を思い出して楽しめない話もあった。もっともランズデール自身、自らの作風には自覚的なようで、暴力衝動についてシニカルに描いた「ゴジラの十二段階矯正プログラム」というのはケッサクだった。ゴジラ(あの怪獣)が自らの破壊衝動を抑えるために、矯正プログラムを受けているという話で、怪獣が怪獣たる所以をちゃんと踏まえた展開には思わず納得。やるなあ。

 収録作品の白眉は中編「審判の日」。これ読めただけでも買った価値があった。巨大ハリケーンが街を襲うその日、賭けボクシングで死闘を繰り返す白人の殺し屋と黒人の新進ボクサーを描く。これもまた暴力的な場面が延々続くのだが、ハリケーンにさらされて破壊されていく街の描写、それぞれの事情を抱えてぶつかり合う登場人物たちのエモーションが上手く絡み合い、盛り上がる盛り上がる。面白かったなあ。特に男子なら燃えること請け合いだ。

 そして「ババ・ホ・テップ」。老人ホームで余生を過ごすプレスリーが、夜な夜な出現して老人たちから精気を吸い取るミイラと闘うというお話。コメディ?たしかにそんな風にも読めるだろう。でも俺には単なるコメディには思えなかった。老プレスリーとミイラの死闘が行われるのは、誰もいない老人ホームの裏庭だ。ギャラリーもいないそんな寂しい場所で、歩くのもままならないほど年老いたかつてのロックスターがどんな闘いをするのか・・・。泣けるんだ、これが。

 ちなみに、映画版「プレスリーvsミイラ男」も原作の雰囲気を上手く活かした、なかなか面白い作品に仕上がっていた。プレスリーを演じるのが「死霊のはらわた」シリーズのブルース・キャンベルってのもポイントが高かった。


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2009年11月12日 (木)

「愛という名の病」(パトリック・マグラア)

 パトリック・マグラアの長編第3作「愛という名の病」(1993年)読む。

 ロンドンの大病院で研修医として勤務するハガードは、解剖医の妻ファニーと不倫関係に陥る。後ろめたい関係はやがて解剖医の知るところとなり、2人は引き裂かれる。傷心のハガードは、海辺の寒村で開業医を営みながら、彼女への追憶の世界に生きていた。ある日、ジェイムズという若い飛行兵が病院を訪れる。
 「先生は母の知り合いだとうかがいました」
 ハガードは、かつて愛した女性の息子に、2人の思い出を語り始める・・・。

 許されぬ恋愛に身もだえる男の心情が綴られる前半は、オーソドックスなメロドラマ調。初めは聞き手としてのみ存在していたジェイムズがハガードと深く関わってくる後半から話はおかしな方向に捻じれ、マグラアお得意の妄想が介入した「信頼できない語り手」の世界に突入する。
 そもそも恋愛とは主観的なものであり、そこには多分に妄想が入り込むものだろう・・・。そんな感じで途中までは読んでいるわけだが、後半の暴走ぶりは予想を超えて凄まじい。足の古傷を「スパイク」と名付け、スパイクが暴れる時にはモルヒネ注射で落ち着かせながら、次第にありえない恋愛の世界に突入していく主人公。彼が「愛という病」(原題は「ハガード医師の病」)の果てにたどり着くラストシーンは、ホラー映画も顔負けのショッキングなものだ。映像的にもかなり面白いと思う。

 時代は第二次世界大戦の頃に設定されており、戦争の暗い影が物語の背景を覆っている。主人公が参加する手術の様子が丹念に描写されていたり、主人公が住む屋敷の様子がまるで怪奇映画に出てくる古い洋館のようだったり、全編の異様なムードは忘れがたい。

 一見古めかしい不倫メロドラマ、実は妄想に囚われた男が破滅していくマグラアらしい物語であった。


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